明け方の二つの叫び声は静寂を掻き消していく−。
夏の話だ。
いつものように仕事から帰り、いつものように本を読み、いつものようにPCを弄り、いつものように風呂に入る。
日常というサイクルに慣れた身体はそれを苦痛とは思わず、寧ろ疲れを癒す絶対的時間、そして絶対的空間としての歯車が規則正しい音を鳴らすのだ。それは心地よい音楽のそれに似ているのかもしれない。
絶対的時間を演出する調べよ。
絶対的空間を演出する歯車よ。
今日も一日ありがとう。
夜の喧騒も徐々に薄れ行く頃、いつものように布団の中に身を委ねる。
遠くに響くトラックの雄叫びも、遠くに響く酔っ払いの戯言も、今の俺には子守唄の類になる。すぐ傍では、雨音が心地よい調べを生む。
まどろむ身体は夜の帳に。
まどろむ心は紫の闇に。
今日も一日ありがとう。
雨音の向こう、階段を下るお袋の足音が意識の遠方で聞こえる−。
これも日常というサイクルに組み込まれたひとつの音楽のそれ。
明け方のテンポは打楽器の調べ。
明け方の雨音はショパンの香り。
今日もまた、歯車が音を立てて動き出す。
不意に。
聞きなれない奇妙な音が意識の前方に飛び込んでくる。
しかし何かの聞き間違いと、音を無視して布団を被る。
けれど奇妙な音は更に意識を揺り動かす。
それが−お袋の声と気付くのに多少の時間を要した。
明け方の叫びが歯車を狂わす。
明け方の叫びが日常を壊す。
その叫びには、明らかに恐怖の色が混じっていた。
「どうしたあっ!!」
「いやあっ!」と叫びを上げるお袋の元に駆けつけようと、慌てて階段の傍に来れば、顔面蒼白なお袋が物凄い勢いで階段を駆け上がってくる。
「台所に誰かいる〜っ!!!!」
泣き声に変化したお袋の声が、俺の背中に緊張感を走らせる。
「誰だあっ! 誰かそこにいるのかあっ!」
閉まった台所のドアに向かって叫ぶ男。
背中の向こうで涙声で悲鳴に似た声で叫ぶ女。
心地よい音楽のそれが、恐怖の色に掻き消される。
明け方の二つの叫び声は静寂を掻き消していく−。
階段を途中まで下りたところで急に身体に緊張が走る。
考えろ。侵入者は台所にいるのだ。台所には日常を演出する料理道具がたくさんある。鋭利な刃物だってあるじゃないか…。
嫌な汗が背中に奔る。
嫌な想像が恐怖を煽る。
非日常の歯車が高速回転し始める。
「お袋! 部屋に木刀かなんかあったろ! 持ってきて!」
慌てて部屋に駆け上がるお袋。侵入者を威嚇する俺。
打楽器に似た足音が戻ってきて、俺に手渡された武器。それで少しは対等になれるかもしれない…はずだったのだが。
「これは違う〜!!!!!!!!!!」
お袋が慌てて持ってきた武器は、こともあろうに電話の子機だった。これで俺にどうしろと言う?
慌ててお袋に子機を返せば、お袋はボタン操作をし始めた。
ああそうだった。電話はこうして使うものだったのだ。
「警察って! 警察って何番だったっけ!?」
慌てたお袋が俺に問う。
非日常の烙印のもと。
非日常の烙印のもと。
正しい規則よ何処に消えた?
「もしもし警察ですか!?」
黄色い声を背中に受けつつ台所に意識を集中すれば、茶の間側の玄関の閉まる音がした。
「……あれ?」
慌てて階段駆け下りて、台所のドアを蹴り開ければ、誰もいない空間がそこにあった。
ダッシュで玄関を開けてみれば、人影などもうなかった。
−ただ、玄関に残された出来たばかりの靴跡が、侵入者の存在を大きく物語っていた。
雨音の調べがショパンにもどる。
雨音の調べがショパンにもどる−。
警察が来て事情聴取のもと、お袋から詳細を聞く。
いつものように階段下りて、いつものように台所のドアを開ける。何か違和感を感じ、開けたドアの脇を覗き込めば、見知らぬ男が物を物色していたらしい。一瞬の沈黙の後、叫び声を上げつつドアを閉めれば、そのドアを開けようと男と力比べをしていたらしい。
俺の大声を聞いたお袋が、慌てて階段上がってきたと言う訳だ。
どうやら男が侵入して数分と経っていなかったようで、何も盗まれはしなかったが、その恐怖は計り知れないものだった。
で、一番の問題は、寝る前に玄関の鍵を閉め忘れた俺だった。
非日常は背中越しに。
非日常は意識の向こうに。
歯車はいとも完全に崩れ去るものなのだ。
そして何事もなかったように、俺はもう一度布団の中に身を委ねたのだった。
夏の話だ。
いつものように仕事から帰り、いつものように本を読み、いつものようにPCを弄り、いつものように風呂に入る。
日常というサイクルに慣れた身体はそれを苦痛とは思わず、寧ろ疲れを癒す絶対的時間、そして絶対的空間としての歯車が規則正しい音を鳴らすのだ。それは心地よい音楽のそれに似ているのかもしれない。
絶対的時間を演出する調べよ。
絶対的空間を演出する歯車よ。
今日も一日ありがとう。
夜の喧騒も徐々に薄れ行く頃、いつものように布団の中に身を委ねる。
遠くに響くトラックの雄叫びも、遠くに響く酔っ払いの戯言も、今の俺には子守唄の類になる。すぐ傍では、雨音が心地よい調べを生む。
まどろむ身体は夜の帳に。
まどろむ心は紫の闇に。
今日も一日ありがとう。
雨音の向こう、階段を下るお袋の足音が意識の遠方で聞こえる−。
これも日常というサイクルに組み込まれたひとつの音楽のそれ。
明け方のテンポは打楽器の調べ。
明け方の雨音はショパンの香り。
今日もまた、歯車が音を立てて動き出す。
不意に。
聞きなれない奇妙な音が意識の前方に飛び込んでくる。
しかし何かの聞き間違いと、音を無視して布団を被る。
けれど奇妙な音は更に意識を揺り動かす。
それが−お袋の声と気付くのに多少の時間を要した。
明け方の叫びが歯車を狂わす。
明け方の叫びが日常を壊す。
その叫びには、明らかに恐怖の色が混じっていた。
「どうしたあっ!!」
「いやあっ!」と叫びを上げるお袋の元に駆けつけようと、慌てて階段の傍に来れば、顔面蒼白なお袋が物凄い勢いで階段を駆け上がってくる。
「台所に誰かいる〜っ!!!!」
泣き声に変化したお袋の声が、俺の背中に緊張感を走らせる。
「誰だあっ! 誰かそこにいるのかあっ!」
閉まった台所のドアに向かって叫ぶ男。
背中の向こうで涙声で悲鳴に似た声で叫ぶ女。
心地よい音楽のそれが、恐怖の色に掻き消される。
明け方の二つの叫び声は静寂を掻き消していく−。
階段を途中まで下りたところで急に身体に緊張が走る。
考えろ。侵入者は台所にいるのだ。台所には日常を演出する料理道具がたくさんある。鋭利な刃物だってあるじゃないか…。
嫌な汗が背中に奔る。
嫌な想像が恐怖を煽る。
非日常の歯車が高速回転し始める。
「お袋! 部屋に木刀かなんかあったろ! 持ってきて!」
慌てて部屋に駆け上がるお袋。侵入者を威嚇する俺。
打楽器に似た足音が戻ってきて、俺に手渡された武器。それで少しは対等になれるかもしれない…はずだったのだが。
「これは違う〜!!!!!!!!!!」
お袋が慌てて持ってきた武器は、こともあろうに電話の子機だった。これで俺にどうしろと言う?
慌ててお袋に子機を返せば、お袋はボタン操作をし始めた。
ああそうだった。電話はこうして使うものだったのだ。
「警察って! 警察って何番だったっけ!?」
慌てたお袋が俺に問う。
非日常の烙印のもと。
非日常の烙印のもと。
正しい規則よ何処に消えた?
「もしもし警察ですか!?」
黄色い声を背中に受けつつ台所に意識を集中すれば、茶の間側の玄関の閉まる音がした。
「……あれ?」
慌てて階段駆け下りて、台所のドアを蹴り開ければ、誰もいない空間がそこにあった。
ダッシュで玄関を開けてみれば、人影などもうなかった。
−ただ、玄関に残された出来たばかりの靴跡が、侵入者の存在を大きく物語っていた。
雨音の調べがショパンにもどる。
雨音の調べがショパンにもどる−。
警察が来て事情聴取のもと、お袋から詳細を聞く。
いつものように階段下りて、いつものように台所のドアを開ける。何か違和感を感じ、開けたドアの脇を覗き込めば、見知らぬ男が物を物色していたらしい。一瞬の沈黙の後、叫び声を上げつつドアを閉めれば、そのドアを開けようと男と力比べをしていたらしい。
俺の大声を聞いたお袋が、慌てて階段上がってきたと言う訳だ。
どうやら男が侵入して数分と経っていなかったようで、何も盗まれはしなかったが、その恐怖は計り知れないものだった。
で、一番の問題は、寝る前に玄関の鍵を閉め忘れた俺だった。
非日常は背中越しに。
非日常は意識の向こうに。
歯車はいとも完全に崩れ去るものなのだ。
そして何事もなかったように、俺はもう一度布団の中に身を委ねたのだった。
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